夏目漱石『こころ』を読んだのであらすじ・書評を書いた

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夏目漱石の『こころ』を再読したので、あらすじ(ネタバレあり)と書評を書きました。高校生のときとは全く違った視点で読むことができました。大人になってから読むと違った感想を持つというのも読書の楽しみの一つですね。

作者・作品紹介

夏目漱石は皆さんご存知だと思います。昔は千円札に描かれていましたよね。年がバレますね。

近代日本文学は夏目漱石から始まったと僕は考えています。漱石は英語の教師をしており、イギリスに留学するのほどの英文学の研究者でした。でもまあ、イギリスでは酷い有様だったらしく、研究成果をほとんど残せず帰って来たみたいです。

そんな漱石はおそらく英文学に恐ろしいほどコンプレックスをもっていたのだと僕は考えています。だからこそ、漱石は日本文学というものをとことん突き詰めようとしたのではないかと思います。

本作『こころ』は漱石の晩年の作品です。みなさんも国語の教科書で1度は読んだことがあるのではないでしょうか。僕の記憶では、物語のラストの方だけ切り取って教科書に載っていたと思います。それ以外は、自分で本を買って読む宿題にされた記憶があります。

この『こころ』は乃木希典という英雄的軍人が自害したことに影響を受けて描かれたと言われています。なので後半の書評の箇所では、乃木希典に触れつつ『こころ』を読解したいと思います。

あらすじ(ネタバレあり)

読んだことあるよって方はページの下段の書評へGO!

「私」と先生

主人公の「私」は親元から離れて東京に住む学生です。夏休みの海水浴場でひょんなことから「先生」と知り合いになります。妙に先生に魅せられた「私」は、その後も先生の自宅へと足繁く通うようになります。

先生は奥さん(お嬢さん)と二人暮らしをしています。先生には誰にも知られたくない暗い過去があるようで、自身のことを執拗に貶める発言を繰り返します。

繰り返し先生と会ううちに「私」も先生の過去のことが気になり詮索してみるものの、先生の奥さんもその理由を知りません。

ある夏休みに「私」は父親が病気という報を受け取り田舎へと帰省します。果たして父親の病気は相当に深刻な状態となっているのでした。そこに突如として先生から手紙が届きます。その手紙には先生の知られざる過去についての告白があるのでした。

先生の手紙

手紙は先生が早くに両親を亡くし、信用していた叔父に両親の遺産を騙し取られるところから始まります。遺産の大部分はなくなったものの、両親が残した家を売り、1人で暮らせるだけの遺産を手にした先生は東京へと移り住みました。

東京で先生は、ある未亡人のおかみさんとお嬢さんの二人暮らしの下宿に住むことにしました。あとから、地元の友人であるKがその下宿に住み始めました。Kはもともと寺の子であり、親と絶縁し東京で学問に打ち込んでいます。

先生は次第に下宿のお嬢さんに惹かれるようになります。先生は折に触れて、Kにもお嬢さんにもその気持を打ち明けようとするのですが、なかなか言えずいました。

そんな矢先、先生はKからある告白を聞くことになるのです。それは、Kがお嬢さんに恋をしているということです。Kは親と絶縁してまで学問に打ち込んでいます。Kは学問に専念できず、恋と学問の間で苦悩するこころを先生に打ち明けたのでした。

先生はその告白に動揺し、自らもまたお嬢さんのことが好きであるということを言えません。むしろ、非常に利己的な気持ちから、恋でこころを惑わせている人間は「馬鹿だ」と批判してしまうのでした。

さらに先生は先走った行動に出ます。Kがいないとことを見計らって、おかみさんに「お嬢さんを下さい」と結婚を申し込んだのです。先生はそのことをKには言えませんでした。

そして、その翌日、Kは自殺していたのです。遺書には「自分が意志薄弱のため自殺する」と書いてあるだけでした。

書評

今回は書評です。普段の感想とは一味違うぞ!

乃木希典

この小説について語るにあたって、乃木希典という人物を抜きにするわけにはいきません。詳しくは、Wikipedia先生に譲るとしまして、サラッと大事な部分だけ紹介します。

日本史を勉強した方はご存知と思いますが、乃木希典は軍人です。日露戦争にて旅順要塞を攻略し、英雄となった人物です。しかし乃木は明治天皇の死に際し自害します。

夏目漱石の『こころ』は乃木希典の自刃に影響を受けて書かれた小説と言われています。乃木は旅順攻略の際に、多くの犠牲者を出しました。にも関わらず日本では英雄視されていたことを、かなり苦にしていたようです。そのことから見ても「先生」と乃木の生涯は重なって見えます。

先生とKと私

この小説には、主な登場人物に3人の男が出てきます。「私」「先生」「K」の3人です。この3人の主な出来事を表にまとめると次のようになります。

K    親と絶縁→お嬢さんに恋→恋心の告白→自殺
先生
 両親の死→お嬢さんに恋→Kの告白→ Kの自殺→手紙の告白→自殺
  親の病気    →   手紙の告白→先生の自殺


この3人の人生を見るとそこに1つの構造が浮かび上がってきます。それは父の死(象徴的な意味での)→告白→死という構造です。そして必ず告白をしたものが自殺します。ちなみに、Kは象徴的な意味で先生の父であり、先生は象徴的な意味で「私」の父と見れます。ここで言う象徴的とは、役割的という意味です。それぞれの父親のような役割を背負った人物と思うとわかりやすいです。このように3人の歩みは、相似的になっています。

そして過去のKと先生の役割は現在ではK→先生となり、先生→「私」と入れ替わっていることがわかります。Kが先生に告白して自殺する代わりに、先生が「私」に手紙の告白をし、自殺するのです。この小説はこのような入れ子構造になっているのです。

交換とコミュニケーション

先生の苦しみの根源について考えていきたいと思います。先生の苦しみの根源は、コミュニケーションの不完全にあります。コミュニケーションとは、そもそも何でしょうか。コミュニケーションは本質的には「交換」であると言えます。僕たちは、本質的に「交換」をしなくては生きていけない生物です。

例えば、もっとも端的な例はお金の交換でしょう。我々は、お金だけを持っていても生きていくことはできません。それを何か(例えば食べ物)と交換する必要があります。

または、FacebookやInstagramに楽しそうな写真を上げる。これは見た人から、「イイネ」という返信がほしいわけです。我々は常に何かの交換をして生きています。

交換には2つの種類があります。1つは、2人で行う交換です。これは単純で八百屋さんで野菜を買うのと同じです。私がお金を出し、八百屋の主人が人参を渡す。お金と人参の交換です。次に3人以上で行う交換もあります。順々に回していく交換ですね。

さて、交換が成立するにはある条件があります。それは、出したモノに対して返答の品があり、かつ、最初に出したものと同等な品であることです。Facebookを例に取ると、もしFacebookにイイネの機能や返信の機能がなかったら誰も投稿しないでしょうし、何かを投稿しても、投稿したものに対して期待したリアクションがなければ投稿するのをやめてしまうでしょう。

そういう意味で交換で重要なのは返答があることと、それに見合った返答がされることなのです。

先生の苦しみ

先生の場合を見てみましょう。先生の苦しみはコミュニケーションの不成立から生じています。そのコミュニケーションはKの告白から始まります。Kは先生に対し、お嬢さんへの恋心と自らの学問との葛藤を告白します。

ここで交換が成立するためには、それと同等の返答(この場合は、先生のお嬢さんへの恋心)をしなければなりません。しかし、先生は過小な返答しかしないのです。そして交換を拒絶されたKは自殺します。ちょうど私たちがtwitterのアカウントを消すように。

そうするとどうでしょうか。先生は返答をする相手がいなくなってしまったのです。返答をする相手がいないとはどういうことか。相手から多大なモノを貰うと、人はそれに対し負い目を感じます。だからこそ返答をするのです。

返答する相手を失った先生はその負い目を背負って生きていくこととなります。それが先生の苦しみなのです。その苦しみを脱却する方法は、交換することです。

上述したように、交換には2種類あります。2人で交換する場合と、3人以上で交換する場合です。つまり先生の苦しみを解消するには、誰かに先生の秘密(ここでは、手紙に書かれていた内容)を告白するしかないのです。

しかしながら、先生は妻であるお嬢さんにそれを言うことができません。そうして、手紙を書いて交換を成立させるまで先生は苦しむこととなるのです。

「私」どうなったのか

先生から「手紙」をもらった「私」は、それに返答しなければなりません。だからこそ、「私」は汽車で先生に会いに行くのです。もしそこで、先生に会いコミュニケーションが成立したとすれば、先生は死を免れるはずなのです。コミュニケーションの成立は返答を待たなければなりません。

しかしながら、手紙にも書いてある通り先生は自殺しているでしょう。そうすると今度は「私」が返答をする相手を失い、交換の不成立による負い目を感じることになるのです。

さて、「私」はこのあとどうなったのでしょうか。「私」は、この後交換を成立させていると僕は考えます。なぜなら僕たちがこの小説『こころ』を読んでいるからです。つまり、3人以上で行う交換です。

「私」は、小説という手段でこのコミュニケーションを成立させようと試みたのではないか。先生とは乃木希典であり、「私」は乃木希典の死に負い目を感じる作者ではないか。『こころ』は作者の負い目を消化する交換の方法だったのではないか。

私にはそう思えてなりません。